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宗教問題についての感想:宗教3世の立場から

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安倍氏の銃撃事件をきっかけに宗教問題に目が向けられるようになった。当然、安倍氏を銃撃した犯人の行為は擁護できるものではない。しかしながら私自身同情できる点があった。

なぜなら私は祖父母の代から続く、某有名新興宗教の家系だからだ。私は宗教3世にあたる。子どもの頃は否応なしに宗教活動に参加させられたり、両親の宗教活動に連れて行かされたり嫌な思い出が数多くある。独り立ちしてからは宗教からは距離を置いているが、今考えても理解できない・納得がいかないことばかりだ。

そういった点から、今回の事件の犯人の気持ちは多少同情できる所がある。信仰するしないは人それぞれであり自由だ。しかし私自身は過去の経験から、某宗教に対しては否定的な見方をしている。好きか嫌いかを聞かれたら即座に嫌いだと答えるレベルだし、個人的な考えは嫌いどころか滅びて欲しいと願う位だ。

 

過去エピソードや不満

とにかく恥ずかしい

自分の家だけ他人と違うことがとにかく恥ずかしいと思っていた。変な集会に行かされ、お経を唱えさせられ、「他の子どもたちはそんなことやっていないのに、なぜ自分の家だけこんなわけのわからないことやっているのか?」と常に疑問に思っていた。未だに恥ずかしいという気持ちはなくならない。子どもからしたら意味不明でとにかくださくて、恥ずかしいという感覚だった。馬鹿にされないように友達にバレないように気を使いながら日々過ごしていた。


新聞問題

・某宗教団体は新聞を発行している。友達が遊びに来た時、「この新聞なに?」と何度も聞かれて答えられず恥ずかしい思いをした。

・チラシが入っていないのでお店のセール情報が当時は全く分からなかった。

・信仰していない自分からしたらなんの役にも立たない話ばかりで番組欄しか読むところがなかった。
・見出しに「大勝利!」ばかりでとにかく辟易する。

・新聞契約のノルマ達成の為、自宅で2部契約していた。

某新聞は私にとって何の役にも立たないただの紙切れ同然のものだった。

 

神社の鳥居をくぐったら怒られる。

当時、近所にあった小さな神社に友達と遊びに行ったことを報告したら親に激怒される。

会館で行われるイベント

大きな会館のホールに月1~2くらいのペースで集会がある。多くの信者がそこにあつまり、某名誉会長の講話(ビデオ)のようなものを30分~1時間程度聞くというもの。その他、幹部のような人間がステージに立ってマイクで近況報告や「信心したおかげで良い事が起こった的な」最近の美談のようなものを報告し、信仰心を深め団結力を高めるような会も定期的に行われる。最後は決まって10分~15分程度のお経で締める。子供にとっては暇でありとにかく苦痛。そして異様。


若者の集いへの勧誘

中学~大学までの間、定期的に若者の集いに勧誘されてそれがとにかく苦痛だった。20代の若手先輩信者から経典のようなものの勉強や教えの理解を深める会、名誉会長の映像を見る会、同年代の信者との親睦を深める会などの勧誘が度々あった。

結局断わり続けて参加したのは数回に止まったが、一切興味関心がないものの勧誘を受け続けるのも、毎回断るのもとにかく面倒で苦痛だった。

 

洗脳のようなもの

まだ分別のつかない子供の頃、両親からよく言われていたのは「一生懸命信心しているから今こうして元気に生きていられるんだ」といった主旨の言葉だ。

「信心しているから仕事がある」、「勤行によって幸せになる」といったような言葉を日頃言われていた。そういった考えを植え付けられていたが、信仰することがなぜそれに結び付くのかは宗教を信仰する気がない人間にとっては理解できないことだ。

信仰することによってメンタルが改善され、前向きに生きられて生活に良い流れが生まれるというものなのだろうか。はたまた目に見えない超自然的な力が働くとでもいうのだろうか。たとえ良い事があったとしても宗教と因果関係は結び付かない。

 

選挙活動の組織票

ご存知の通り、彼らは選挙時期になると票集めに必死になる。自分の賃金になるわけでもないのにも関わらずだ。

宗教に関係のない友人知人、親戚に某政党に投票するように必死に呼びかけてくる。誰を支持して投票するかは、各自が候補者や政党の公約や経歴などから判断して各自の考えで投票するものだ。それをなぜ他人に言われるがままに投票しなければならないのか。また、信者達が各自判断しないで支持政党であるからという理由で盲目的かつ機械的に投票しているのもおかしな話である。

 

私の考え

信仰は自由であり人それぞれだ。各人が宗教を信仰したいと思うのであればそうすれば良い。結局他人は自分ではないし、自分も他人ではないのだから家族(他人)が信心する宗教のことなど理解できるわけがない。

確かにそうなんだけれども、今考えてもなぜ両親があんなに時間を削って宗教に力を注いでいたのか、未だに理解ができていない。一生懸命信仰を深めたところで見えない力が加わり、努力が報われるとでも言うのだろうか?私はそう思わない。祖父母や周囲との人間関係で仕方なくだとすれば離れるべきだと思う。

自分が宗教を信じるのと他人に信じ込ませるのは全くの別物だ。子供に信じ込ませようとすることは間違っている。宗教のあるべき姿は自分、あるいは家族の生活を精神的に豊かに、よりよくさせるものだという意識は私の中にある。しかし宗教にのめり込んでしまい、盲目的になると他人を巻き込み不幸につながる可能性が出てくる。宗教に己の精神を依存しすぎることは問題だ。大なり小なり他人を不幸にしてしまうものはそれは宗教ではなく、別の何かだ。

安倍元首相が亡くなったのは本当に残念な限り。今回の件をきっかけにして宗教問題がある程度解決に向かえばいいとは思うが100%無理だろう。なぜなら問題は根深く、選挙での勝ち負けの問題に大きくかかわってくるため、それを良しとしない人間が大勢いるはずだからだ。どうせ変わらないだろうと私自身は諦めの目で見ている。

宗教で失われるものはお金だけではない。お金が失われることはたしかに大きい。多額の献金で人生が狂った家庭も一定数いると知った、しかし失われるのはお金だけではない。宗教によって時間が失われることもお金と同じくらい大きい問題だろう。

タイムスリップできるのであれば当時の両親に「なんでそんな時間の無駄になることやってるの?」と問い詰めたい。何度も述べるが信仰は人の自由。しかしながら「家にデカい仏壇置いて毎日そこで長時間お経唱えてるその時間、無駄じゃないの?だったら趣味にでも時間使ったら?」という気持ちは今でも消えない。

もしこんな宗教がなかったら自分のトラウマはいくらか減っていた事だろう。