自分本位。

株とモノ批評、時々小話。なんでもことばに。

「シャンプー」について

      

シャンプーが好きだ。美容室や床屋でやってもらうシャンプーはあまりに気持ち良すぎる。潔癖症や接触恐怖症のような人を除いては嫌いな人などほとんどいないだろう。

顔にタオルや布をかけてもらい、へらへらと話しかけられず静かに黙ってシャンプーされたい。でもずっと黙っていられるのは嫌だ。「かゆい所ないですか?」と、かゆいところがないのにもれなく訊かれたい。そして私は「ないです」と答えたい。当たり前のあいさつのように、美容師のお姉様とたった一言だけやりとりするのも好きだ。このやり取りがないと、ちょっと冷たく寂しい感じがする。

シャンプーという名前もなんか好きだ。連呼するとトイプードルのようなかわいらしさや愛らしさが感じられてくる。語感・響きが素晴らしい。シャンプーの泡立つ感じ。泡がふわっとする感じ。シャカシャカゴシゴシする音。シャワーでジュワーっと洗い流される感覚。自宅にはない良い香り。全部ひっくるめてシャンプーという名称がピッタリすぎる。

ちなみに、シャンプーの語源はヒンディー語から来ているのだそう。もともと「頭皮をマッサージして清潔に保つ」的な意味らしい。

 

独身生活を謳歌していたころ、ホットペッパーの美容師を指名できるシステムを活用していた。美容師の写真を見て好みのお姉様を指名させて頂き、そのお姉様にシャンプーしてもらう。というのを月1の楽しみとしていた。散髪の時期になると近隣の美容室を徹底的に調べ上げ、タイプのお姉様を指名する。これが月一のルーティーンとなっていた。今となっては贅沢で金銭事情によりできない。仕方ないのでお気に入りのロシア人お姉様のASMR動画でシャンプーされた気になっている。

 

こういった好みのお姉様にシャンプーしてもらうことは一見、キャバクラを利用する客のように邪で不純なスケベ心があると思われるかもしれない。しかしそれは全くの見当違いである。あくまでこれはリラクゼーションの一環でありストレス解消のためである。

目的は美容師のお姉様との会話を楽しむことではない。お姉様に気持ちの良いシャンプーをしてもらうことが第一の目的なのである。会話やヘアスタイルの出来はあくまで付随的なものだ。あくまでもメインはシャンプー。会話はあってもなくても良いし、ヘアスタイルは整髪料でごまかしが効く。「会話はあったらラッキーだな」程度にしか思っていない。

私がお姉様とカジュアルに会話するなどおこがましいことこの上なし。お姉様にはシャンプーに集中してもらい全力を注いでいただく。それが私の唯一の望みだ。贅沢を言えば先述したように、「かゆい所ないですか?」という一言であったり、ささやき気味で「頭皮が凝っていますね」などといったちょっとした一言だけあれば十分だ。

これは至って健全なことではなかろうか。女性インストラクターとマンツーマンで行われる個室ヨガ教室に通うほうがよっぽどいやらしいと私は思う。

肝心のシャンプーについては、女性にしてもらうことの良い点というと力加減が程良いところだ。力を入れすぎるお姉様はそうそういない。さらには理想のお姉様にシャンプーしていただくこと、理想のお姉様の手が自分の頭に触れシャンプーしているということ。聴覚、嗅覚、触覚という3つの感覚を刺激してくれる。普段味わえない非日常体験ができる。これこそが重要なのだ。

しかしながらこの指名制には落とし穴がある。店によってシャンプーをアシスタントにさせるシステムをとっている店もあり、必ずしも指名したお姉様がやってくれるわけではないということだ。アシスタントが男となれば心の中で大ブーイングが巻き起こる。
男性の場合、痒いところがないようにと強めの力で入念にゴシゴシしてくるパターンが多い。違う違うそうじゃない。というか好みのお姉様にやってもらわなければそもそも意味がない。非日常的でプレミアムな体験も求めているのである。こういったシステムのお店は勉強料として割り切り、次回以降は利用しない。

シャンプーは素晴らしい。大抵の場合、美容室に通うという事はヘアスタイルをいかに綺麗に整えてくれるか、理想のヘアスタイルにしてくれるかということに重点が置かれがちである。しかし、いかに気持ちよくシャンプーしてくれるかという事もまた重要なのである。このことは決して忘れてはならない。