自分本位。

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ウィル・スミスの平手打ち行為について:ブッダの教え・中国古典に照らして考える

「本当に強い人たちって、暴力を振るわれてもやり返さない。かといって相手に屈しないし、跪かない。いずれは自分もそういう境地に達したい。」

ある格闘家は引退前にこのようなことを言った。参考にすべき言葉として今でもこれを忘れず留めている。

 

アカデミー賞授賞式でのウィルスミスの平手打ち行為が世界中で騒ぎになっている。世界中が注目する舞台で前代未聞の行為であった。同時に、自分自身にあてはめて、ふるまいや感情のコントロールについて改めて冷静に考える為の良い機会となった。

「彼は俳優としてではなく夫として妻を守った。よくやった」、「殴って当然。コメディアンが悪い」、「彼には殴る権利がある」、「いかなる場合でも、暴力は許されない。」などこの件に対して様々な意見がある。概ね彼を擁護する意見が多い。これに対して私は多少の違和感を覚えた。

確かにウィルスミスの御夫人に向けられた言葉は責められるべきものだろう。しかしながらウィルスミスは感情をコントロールを失い怒りに任せ暴力をふるった。そして結果的に代償を払うことになるかもしれないのだ。

コメディアンを許せと言いたいわけではない。事の原因はコメディアンにある。しかしながらこのような喜ばしい祝宴でムードがぶち壊しになってしまったことがただ残念でならないということだ。

コメディアンの発言に悪意があったかどうかはさておき、本人にとってはジョークで言ったつもりであろうとも他人からは言葉の暴力とみなされ得る発言だ。基本的に暴力は許されないのと同じく言葉の暴力も容認されるべきものではない。慎むべき発言であり、失礼な発言であったことは紛れもない事実だ。この言葉に対して、怒ったウィルスミスからビンタを受けてコメディアンは報いを受けた。物理的な痛みや羞恥心を感じたはずだ。

結果としてはコメディアンが謝罪すべき失礼な発言をしてしまった。同時にウィルスミスも暴力をふるったことに対して謝罪をしなければならなくなった。発端となったコメディアンの発言がなければそもそもこのような出来事にはならなかった。ウィルスミスが割を食う形となってしまったという風にも捉えられるだろう。

私自身、感情のコントロールに悩み日々対処法を探っている。今回の出来事を私が大事にする中国古典やブッダの教えなどと照らし合わせて再考した。

 

ウィル・スミスのビンタについて

彼はハリウッドスターであると同時に家庭を持つ一人の人間だ。感情的になってしまったことは十分に理解できる。あの場で躊躇うこともなくビンタをして勇気があると思ったと同時に残念な感情も覚えた。

もし罵る者に罵りを、怒るものに怒りを、言い争うものに言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。

わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。 

―罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・ニカーヤ

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」草薙龍瞬からの引用。これに照らし合わせ考えた。

今回の場合、相手の多少の悪意が混じったジョークに対しウィルスミスも反応し、暴力という憎悪(悪意)で返したことになる。つまりはこれは相手から差し出されたものを食べたということと同義であり、相手と同類になってしまった、自分も同じ反応で返した。ということになると私は感じた。あるいは相手から差し出された毒リンゴを食べてしまい毒に侵されてしまった。ということにもなる。

一時の感情に任せて振る舞ってしまえば、それが結果的に自分に返ってきてしまうという見本になる。相手の言葉に反応して心を乱された、その結果ウィル・スミス自身は罰を受けてしまった。

 

冷静になることができていれば、違うやり方があったはず。

外界の悪魔を降そうとする者は、まず自身の心を整える必要がある。
心が整っていれば、もろもろの悪魔は退散し服従するであろう。
よこしまな心を制禦しようとする者は、まず自身の気を制禦する必要がある。
気が平静になっていれば、外からの災難も自身を侵すことはないであろう。

(前集三八)

引用:菜根譚 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫)

中国古典:菜根譚からの一節である。これは私が大事にしている言葉であり、毎日読んで頭に叩き込んでいる言葉だ。

己が冷静になって対処することができれば、今回のような口撃に対して上手く対処できていたのではないかと思っている。外界の悪魔(今回の場合失礼な発言をしたコメディアンや言葉そのもの)に対して、整った心で臨むことができていればこのような結果にはならなかったであろう。

更に、もし怒りという感情に任せて平手打ちをしてしまったらその後はどうなるのか考える必要があった。
・暴力に対する周囲からの批判
・仕事への支障
・信用の失墜
・地位の喪失

心を乱され、冷静さを失って振る舞った行動により、自身に新たな災難が降りかかってくるということになる。

自身の内面にこそ、悪は潜んでいる。心が乱されて弱さや隙を見せた時、それはやってくる。

 

冷静さ取り戻すには?

一つの手法としては、「怒りを理解し、受け入れ、反応しない。」という事だ。

私が参考にしている一冊の本、反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」を参考にする。

冷静さを取り戻す方法としては今ある自分の状態を理解する。そしてそれは単なる執着であると理解する。「自分の心の状態を見て理解し、自覚する」ことが重要であるとされている。

 

どんな対処法があったか?

どんな状況・経緯があろうとも手を出せば結果的に自分も悪い事になってしまうことが世の常だ。なのでもう少し冷静になって良い解決方法がなかったかと考えた。一つの対処法として言葉で返すということである。
彼はもともとFresh Princeという名で活動していたラッパー・ヒップホップアーティストである。

ラッパーであるならば、相手から差し出されたディス(悪口)をラップで巧く返すのがヒップホップの慣習だ。その場ですぐさま何らかの機智に富んだ言葉で返すのがスマートなやり方であったのだろうと思う。それができていればコメディアンに恥をかかせるだけに済んだはずだ。

 

暴力は悲劇を生む

マテラッツィ、ジダン頭突き事件を振り返る「お前の姉ちゃんがほしいと言った。頭突きされるとは思ってなかった」 | Goal.com

2006年のサッカーワールドカップ決勝戦での出来事だ。当時のフランス代表であったジダンは相手選手から家族に対する侮辱的な発言をされたことに怒り、頭突き(暴力)を振るい、彼は退場処分となった。そして試合はフランスが敗北し、優勝を逃すことになった。更に、この試合はジダンの現役最後の試合でもあった。

今回のアカデミー賞での出来事はこの件と酷似している。暴力は悲しい結果を生み出してしまう。

 

一般人に置き換える

これがもしアメリカの著名人のトラブルでなかったらと考えれば、反応は違ったかもしれない。

例)
ニュース記事を読むと「居酒屋で一般客殴った男、逮捕」という見出しの記事があった。内容を読んでみると、居酒屋店で酔っ払った男性客が加害者の男に対し差別的な発言をした。それに対し加害者の男が激昂。男性客を殴って全治1週間の怪我を負わせたとして駆け付けた警官によって取り押さえられ逮捕された。

例えばこんなニュースがあったとする。
この内容を見て思うことは差別的な発言をした方も確かに悪いかもしれないが、殴って怪我をさせた方が悪い。ということになる。全く知らない人間同士のトラブルとして考えると結局、暴力を振るってしまった側が大抵の場合負けになってしまう。

背景・事情についてはある程度考慮されるべきであるが、「失礼な発言をされたから殴った」は通常許されない。我々の社会においては通常、「失礼な発言をされた=言われた相手は殴って良い」とはならない。

失礼な発言をした者は責められるべきだ。だからといって殴って良いとはならない。我々の社会生活においては基本こうなる。だからこそ怒り(自分自身の感情)をコントロールする術を学ばなければならない。

 

最後に

怒りという感情に支配されると思考や判断を狂わせることとなる。そうなると思わぬ代償を払う可能性がある。感情のコントロールは人間が生きていく上での課題の一つだ。これには苦痛が伴う。生きることは苦痛・苦しみなのである。私の考えはどれだけ酷い事を言われたとしても、手を出してしまったらその時点で手を出した側の負けであるということ。怒りを一刻も早く鎮め、冷静に考えられるように気持ちを切り替える事に努めなければならない。

こんな時は先人達の教えが役立つ。
冷静な判断、怒りにとらわれない自由な思考を持つことができれば、後に良い結果をもたらすものだと私は信じる。しかしそれは一朝一夕で習得できるものではない。日々の心がけ、訓練の積み重ねによって身に着くものであり長い期間を要するものだ。こうして他人の行いを見て、自分の振る舞いも直していていくよう努めていきたい。