自分本位。

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「みんなやっているから」という言葉に潜む危険性

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会社員という説明・理由・結果が常に求められる立場にありながら、きちんとした理屈そっちのけで物事を片付けられる場面に直面する。
他の人間がやっていないことを自分一人がやっていたばかりに呼び出され「他の人みんなやっているから、君もそうしてくれないか?」というやんわりとしたお願いベースのオブラートに包まれたメッセージの中にはやめろという意味の込められたまわりくどい指示命令。

多少の気遣いや敬意がうかがえるもののなぜそれがダメなのかという説明に乏しく、これを聞いても腑に落ちない自分。相手にそれがダメな理由をきちんと伝えない、理解してもらえるように説明しないことはそもそも不親切だ。

理由の説明を省略するということは相手に対し説明することを放棄したものと変わらないことであり敬意を欠いてしまっていると感じる。

「みんなやっているから」というふんわりとした理由で片付けられてしまっては言われた相手の理解や納得が置いてけぼり状態だ。周囲との和を最優先としてそれが道理を超越してしまうという事態である。

「みんなやっているから」という理由で物事を片付けられてしまったらそこで議論する余地がなくなり、議論がそこで死んでしまう。

日本に生まれ育ってある程度社会経験を積んできた人間なのでこういった場面では一刻も早く事態を収拾すべく分かったフリをしてこちらが退かなければならないのは分かる。シコリがのこり、後々面倒になるのでその場をとりあえず凌ぎたい、相手の面子を保たなければならないという理由からだ。

しかしながら一方では腑に落ちないと感じてしまう。
なぜ腑に落ちないかと考えると「みんながやっているから」というのは理由ではない。その時点で起こっている単なる事実を述べているに過ぎないからだろう。

こういった周りの雰囲気を重視する考えは危険を含んでいる。重視しすぎるあまり行動に柵が出てくる。そしてストレスが溜まってしまう。必ずしもマジョリティが正でマイノリティが誤りという考えは正しいとは限らない。また、和を重視しすぎる雰囲気が一度形成されてしまうとそこから外れたはみ出し者はいくら正しくても排除される方向に向かってしまう可能性がある。

大抵の日本人は幼稚園・小中高と子供の時から大人から命令されたことをきちんと守りそれに従わなければならないということを常に教え込まれる。その教えがたとえ間違っていてもだ。大人からの教えを善悪や正否の判断をすることもなく子供はそのまま吸収してしまう。
また、子供や若者の反応は特に顕著で自分達と違ったふるまいをする異質の者はすぐさま異常だとみなしたり、いじめの対象に成り得る可能性もある。「みんなやっているから」はこれと近いものを感じる。

こういった面では大人の世界になっても子供の世界と変わらない出来事が時折起こってしまう。
大人が「みんなやっているから」という理由で片付けてしまっては子供にきちんと理解してもらえず、歴史は繰り返してしまう。子供は大人を見て学ぶ。大人の我々が「みんなやっているからやめなさい」などという説明をしていては一生変わらない。

「みんなやっているから」という言葉は紛れもない一種の同調圧力だ。
そして「みんな」に含まれる人間はそれに疑問を持つことなく正しいと思い込み盲信してしまいがちだ。

極端な例だが、
・友達みんながあるクラスメイトをいじめていた。だから自分もいじめていいのだろうか?
・人殺しをみんながやっていたら、自分も人殺しをするのだろうか?
・盗みをみんながやっていたら、自分も盗みをやっていいのだろうか?

もしこのようなことをみんながやっていたら、正しいと定義されるのだろうか?
なにかにつけて「みんながやっているから」という教えをすればこのような疑問・矛盾に陥いってしまう。

他にも「いままで・昔からそうしてきたから」という趣旨の言葉も同類で、
そのように言われてしまったら議論がそこで終わり、改善の余地を失くしてしまう。

 

更に身近な例であれば
・みんながタピオカをのんでいるから、自分も飲む。
・みんなが観ているから、鬼滅の刃を見る。
・みんながニンテンドースイッチをやっているから、それをやる。
・みんながあの娘のことを好きだから、じぶんも好き。
このような場合、行動を起こすまで自分がそれをやりたい意思やなぜやりたいかという考えが全く介在していない。盲目状態で完全な受け身だ。自分で考えるという行為を放棄して、他人の意志や考えで行動させられている。

「みんなやっているから」と言って理由を言った気になっちゃってる人間はもはや自分の意志がない。
「みんなやっているから~をやろう(やめよう)」という言葉の前には「自分の意志・考えはとりあえず置いといて」や「説明するのが面倒だからとりあえず」、「みんなと合わせておいたたほうが楽だから」といったような隠れた消極的な前置きのメッセージが必ず含まれている。
こうなってしまうともはや自分で考えて行動するという一連の行為をサボっているようなものだ。ロボット状態である。


逆に良い意味で使える例も考えた
・(津波・雪崩・崖くずれといった自然災害等で)みんながあっちに逃げているから、自分も一緒に逃げる。

これは一見前向きな意味に感じられるが、これもまた違う。みんなが逃げている方向が必ずしも正解とは限らないからだ。みんなが逃げているからという安心感はあるが、ここにもまた意志がない。また自分で考えて逃げてはいない。

 
と、こんな意味のない事を考えるのに小一時間かけた自分の集中力はすごいなと我ながら驚かされた。
とにかく言いたいことは「みんながやっているから」で片付けてしまうと相手には全く納得されないので特に育ち盛りの子供に対して教える時は十分気を付けていきたいということ。
あとはみんながいくからという理由で断れずに飲み会に行くと最終的に100%後悔するのでこのことは自分自身常に肝に銘じておかなければいけないということ。

 

最後の最後にいい例を思いついた。

みんながいっているあの夜のお店は人気店なのでおそらくハズレは少ないだろうから、気になっていたお店をやめてそっちにいっていみる。

このような場合だ。

これは人気がなく客がほとんどいないようなお店に行くリスクと比べたらよっぽど安全である。経験上、夜の店は特に評判が評判を呼び雪だるま式に客が増えていく可能性が高い。ガラガラの店はリピーターがついておらず、思いもよらないような魑魅魍魎と相手をする可能性が高いことを示している。それだけは避けたい。こればかりは先人(みんな)に倣うのが賢明といえるだろう。